うから はらから
この国の子たちは、周りの人間が自分のために何でもやってくれるものだと考えています。ま、自分のやることはせいぜい選ぶことだけ。気に入らなければ、ちょっと文句を言いさえすれば、別のオプションが目の前にササッと用意されます。親や祖父母、果ては教師までもが甘やかすことが義務だと思い、その子は甘えることが権利だと思ってます。自分の行く大学さえも、予備校が作った”合格占いシステム”が弾き出す選択肢の中から、教師が強く勧める大学を選ぶだけ(教師は勤務評定に関わるので、子供は挫折感を味わいたくないので、そうなるのが必然)。だから自己責任なんてありません。もし自分が人生を失敗したなら、それは色々と自分のためにオプションをセットした親や祖父母、教師が全部悪いわけですからね。学校だけでなく家庭も含めて、戦後の日本教育は大失敗です。
あ、そう言えば最近同じような話を読みました。Hの吉田君が貸してくれた、阿川佐和子の「うからはらから」の中にこんな一節が出てきます。
「口答えすることに何の躊躇いもなく、ひたすら自己主張して生きていれば正しい人間になれると思い込んでいるこんなガキ大人を生み出したのは、やはり戦後教育の大いなる失策と言うしかないだろう。私も戦後教育にどっぷり漬け込まれた世代ではあるけれど、ここまで勘違いはしていないつもりだ。私たちはまだ親が戦中派の教えを受け継いでいたから救われたのかもしれない。今の若者は、親がすでに完璧な戦後派だ。下手をするとバブル世代も混ざっている。日本の情緒も謙遜の美徳も清貧の精神もまったく意に介さない。合理主義と拝金根性と権利の主張とささやかな博愛精神と偏差値だけで人生まかり通ると思っている親にブランド志向をたたき込まれ、何不自由なく、叱られることもなく育ってしまう子供の脆弱さ。いくつになっても子離れしない馬鹿親の元で過保護に育てられた子供に、いくら成績がよくたってろくな人間はできないわけだ。だって最近は会社の入社式にも親がついてくるっていう噂ではないか。いつまで子供あつかいしていれば気が済むのだろう」
佐和子さんもなかなか言いますね。アマゾンのレビューには「ゆるりまったり阿川ワールド」とあるのですが、これを書いた人は佐和子さんが言いたいことが分かってないような気がします。語り口の軽妙さに騙されてはいけません。
話題とはあまり関係のないことなのですが、最近の翻訳原稿は誤字脱字は当たり前で、電通なんかに至っては自分で勝手に日本語をねつ造していて意味不明です。自分の世界に人を勝手に引きずり込まない、そして校正くらいちゃんとやんなさい!全く。そう言えば、この「うからはらから」にも変換ミスがありました。こんなので編集者がつとまる「ゆるい」時代なのですね、今は。
新潮文庫「うから はらから」P.58
「チチが警官の制服を来て交番に立っている姿を見たのは一回きりで―」
「制服を来て」を普通見落としますか?
最近は、「他人への気遣い」が「空気を読むこと」にすり替わり、気遣うことがタブーになって、やってもらって当たり前の自己チューばかりが目に付きます。でも、今日、ちょっといいことがありました。横断歩道を渡ろうとしている小学生が二人いて、薮下は車を止めて彼らが渡るのを待っていました。子供の頃から「世間」にあまり絶望して欲しくないので(大人になると絶望するに決まってますから)、必ず子供が渡るまで薮下は待ちます。あ、赤になってもすまし顔で渡っている大人たちにはクラクションを鳴らします。あれはただのルール違反ですからね。渡り終わった彼らが何をしたかというと、何とぺこりとお辞儀をしたのですよ!まったく予想していなかったので、随分感動しました。あんな子もまだいるのですね。裏返すと、ちゃんとした親もまだいるのですね。
愛知県が交通死亡事故ワーストだということは、全国で愛知県が一番自己中心的だということです。薮下も自転車に乗っていて、1年に3回、もう少しで天国に行くところでした。3回目の事故では、救急車で病院に搬送されました。名古屋市の交通マナーの悪さはちょっと想像を絶しています。願わくは、お辞儀をして行った子たちが交通事故に遭いませんように!
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This was written by
yabu. Posted on
日曜日, 2月 8, 2015, at 2:06 PM. Filed under
「エッセイ」. Bookmark the
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