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AKB47君の憂鬱・描出話法1

<質問>
以下は1999年度、京都大学の英文和訳の一節と、赤本の和訳です。
Susan’s eyes automatically brim with tears, as they do every time she thinks of the mother she lost to cancer just months after Nicki was born.  So beautiful. So patient. So instinctively correct in everything she said and did.  What would she think of the mother her daughter had become?  What advice would she give her?  How would she have handled the increasingly challenging young woman her infant grandchild had grown into?
スーザンの目にひとりでに涙があふれてくる。ニッキーが生まれてほんの数ヶ月後、ガンで亡くした母のことを思うたびにそうなる。あんなに美しかった母。あんなに辛抱強かった母。言うことなす事、何事にもあんなに直感的に正しかった母。娘の私がこんな母親になってしまったことを、なくなった母だったらどう思うだろう。母なら私にどんな助言をしてくれるだろう。赤ちゃんだった孫が成長して、ますます挑戦的な若い女になってゆくのを、母ならどう扱っただろう。
僕はこのように和訳しました。
「彼女は自分の娘が母になったことについてどう思うのだろうか。娘に何と忠告するだろうか。幼い孫が成長してますます手のかかる若い娘になるのをどう扱っただろうか」
赤本の解説には、下線部は全部描出話法が使われているので、What advice would she give her?を「彼女なら彼女にどんな助言をしてくれるのだろう」と訳すのは論外だと書いてあります。先ず、僕がよく分からないのが「描出話法」です。赤本は「展開を見失うと地の文との区別が難しくなる」と言うだけで、具体的にどうしろとは書いていません。一体、この描出話法とは何なのでしょうか?また、僕の答案は描出話法の和訳として適切なのでしょうか?
<回答>
AKB47君!君の抱える憂鬱は、受験英語の持つ負の部分に起因していると思われます。入試で翻訳家レベルの英語力を要求したって仕方のないことで、採点する方にもそんな力はないのだから、前にここで書いたように入試や模試そのものが全くの茶番なのですよ。だいたい、ここで赤本のやってる様に、challenging young womanを「挑戦的な若い女」だなんて教わっていた日には、いつまでたっても英語なんて使えるようになりません。だって、challengingという形容詞は主に仕事や問題、状況などに対して使うからです。こんな具合です。
扱うのが難しい仕事、やりがいのある仕事
a challenging job
厳しい企業(の経営)環境
challenging corporate environment
辞書によっては「言葉」や「態度」にも使うと書いてあるものもありますが、普通はchallengingじゃなくてaggressiveやprovocativeを使います。
挑発的な言葉
aggressive language(○)
challenging language(×)
挑戦的な態度
aggressive attitude(○)
challenging attitude(×)
どういう根拠だか知らないけれど、赤本はchallengingを「ここは”挑戦的”の意で、”やりがいのある”は不可」と言ってますが、お母さんにケンカを売ってるワケじゃないのですから、人に「挑戦的な」なんて形容詞は絶対に使いません。これは君が訳したように「扱うのが難しい子供」、「手のかかる子」の意味です。こんないい加減な解説をやっているなんて、赤本もどうかしていますね。だから、AKB47君!もうくだらないことで悩まないでくださいね。
さて、描出話法ですが、これは日本語でも英語でも、物語や小説でよく使うの技法の1つです。こんな具合です。
 自然が残っていて、空気が澄んでいて、海が綺麗で、山も綺麗で、とにかく都会にはない良さがあるだろう、と勝手に想像していたのだが、現実はそんなに甘くはなかった。田舎は田舎だ。とにかく不便だ。そして寂しい。それに尽きる。それらの問題は、どんなに綺麗な風景を見ても解決できないものなのだ。そう話すと、雨宮が厳しい顔をして首をふった。
「結論を急いではいかんがね。不便だと考えるのがおかしい。鶏小屋の鶏みたいな、目の前にえさがあるのが便利か、わざわざえさを探しに行くのが不便か?そういう不自由な便利さにならされとるのが都会人だがね。まあ一種、家畜みたいなもんだわさ」(と間宮は加部谷言う。)
森博嗣『ジグβは神ですか』より引用。( )内の伝達部分は薮下の補足。
上の一節は、著者である森博嗣氏が紡ぎ出してる小説の地の部分と、登場人物である雨宮純のセリフの部分とから成っています。小説の面白さは、この2つの部分を上手く織り交ぜながら著者独自の情緒的世界を作り上げることにあると薮下は考えます。説明的な地の部分だけだと心が入らず、逆にセリフの部分ばかりだとそれはただの台本です。この2つの絶妙なバランスが物語をの面白くします。薮下は森博嗣氏のミステリーが大好きなのですが、どうしてかというと、彼は良くこの地の部分で自分の考えを上手く織り交ぜてきます。上でも、都会人のことを「不自由な便利さに飼い慣らされた家畜」だと揶揄してますよね。下線部も加部谷恵美のセリフにはせずに、あえて彼女の独白にすることで彼女のキャラをいっそう際立たせるのに成功しています。
さて、ちょっと乱暴な分け方ですが、小説の地の部分は「間接話法」で、登場人物のセリフの部分は「直接話法」で描かれています。でも、下線を引いた部分は「間接話法」でも「直接話法」でもありませんよね。なぜなら、これは著者の視点からの説明でもなく、かといって登場人物の口から出たセリフでもないからです。これを「描出話法」といいます。ものすごく簡単にいうと、「描出話法」とは「 」の付いていないセリフ、登場人物の独白、直接話法の生々しさを保持しつつ登場人物の心情をクールに描き出す間接話法だというわけです。 
「田舎は田舎だ。とにかく不便だ。そして寂しい。それに尽きる。これらの問題は、どんなに綺麗な風景を見ても解決できないものなのだ」と加部谷は思った。(直接話法)
加部谷の思うには、田舎は田舎であり、不便で寂しいだけのことであって、それらの問題はどんなに綺麗な風景を見ても解決などはできはしないというわけだ。(間接話法)
 ⊿田舎は田舎だ。とにかく不便だ。そして寂しい。それに尽きる。これらの問題は、どんなに綺麗な風景を見ても解決できないものなのだ。(描出話法)
これだけを見ると、「描出話法」にするには、「直接話法」のセリフに付いてる「 」を外して、伝達部分の「と加部谷は思った」を取っ払っただけだと分かります。だから、日本語の「描出話法」はもうほとんど「直接話法」みたいなものなのです。
さて、今度はこれを英語にしてみましょう。英語は日本語と違って時間に厳格なので話法を転換すると「時制の一致」が起こります。そして、日本語では省略されている主語や人称代名詞が、英語では明示されるので、「人称代名詞、指示代名詞の転換」にも注意しなくてはなりません。こんな具合です。
“The countryside is the countryside. Anyway, it’s inconvenient. And lonely, too. That’s all. No matter how beautiful the scenery is, these are problems that won’t go away,” Kabeya thought.  (直接話法)
Kabeya thought that the countryside was the countryside, it was just inconvenient and lonely, and that those were problems that wouldn’t go away no matter how beautiful the scenery was (happened to be). (間接話法)
The countryside was the countryside. Anyway, it was inconvenient. And lonely, too. That’s all. No matter how beautiful the scenery was, those were problems that wouldn’t go away. (描出話法)
これを見て分かることは、英語の「描出話法」は、もうほとんど「間接話法」に近いと言うことです。赤い部分の「時制の一致」や、青い部分の「人称代名詞・指示代名詞の転換」は「直接話法」を「間接話法」にするときの必須手続きでしたね。違うところと言えば、黄色い部分の文構造だけです。つまり、英語の「描出話法」は、文の構造や語順は「直接話法」と同じなのですが、時制や人称代名詞は「間接話法」なので、パット見はもうほとんど「間接話法」に思えます。
では、今度はこの描出話法をできるだけ英語の意味と構造に忠実に和訳してみましょう。いうなれば、これは英語の描出話法を英語の発想のまま日本語にしたものです。
田舎は田舎だった。ともかく不便だった。そして寂しくもあった。ただそれだけであった。たとえどんなに風景が綺麗だったとしても、それらの問題は解決しなかっただろう
あれ?と思いますよね?!前にあった日本語の描出話法と全然違っています。さっきのは、指示代名詞の「これらの問題」が「それらの問題」にはなってますが、時制は「田舎は田舎」とか「とにかく不便」になっていて、直接話法と全く変わらない。ということは、英語の描出話法と日本語の描出話法はどうもちょっと違うぞ、と言うことがわかります。つまり、英語の描出話法を和訳するにはちょっとした工夫が必要なわけです。
あ、日本語では「~どうもちょっと違うぞ、と言うことが分かります」は直接話法に、「~どうもちょっと違うことが分かります」は間接話法に分類されるそうです。つまり、日本語は「 」がなくても直接話法になったり、伝達部分とそうでない部分の区別が曖昧だったり、膠着語族なので文の構造や語順がいい加減だったりするので、英語のようにスパッと「直接話法」、「間接話法」、「描出話法」を区別するのが難しいわけです。さっき「ちょっと乱暴な分け方ですが」と言ったのはそう言うわけです。
さて、森博嗣氏のミステリーではちょっと分かりにくいので、次回はもう少し簡単な例を使って描出話法の和訳の仕方を考えてみましょう。

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