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AKB47君からの質問

<質問>
以下は、2004年度の京都大学の下線部訳です。
With the rapid expansion of cameras and consumer photography today, it may be difficult to imagine a world without photographs.  We have grown up with it, and the taking and viewing of photographs has become a part of everyday life.  It is important to stress, however, that in the early days photography was something wonderful and new.  Once the technology had been perfected, what was this thrilling new medium going to be used for?  The technology, it seemed, preceded the purpose.  For the early pioneers, it was enough to demonstrate that it worked, and that the natural world could be “frozen.” Their  photographs didn’t tell us much new about the world, other than that it could now be photographed.  Once the novelty wore off, however, photography began to open up a visual world as never before.
  Photography allowed people to see places they would not otherwise have been able to see.  For example, few people were able to travel to Egypt themselves, but thanks to photography, they were now able to see such wonders of the world as the pyramids.  In addition to places, people could now see people.  Nowadays, we are entirely used to seeing photographic images of the politicians and the celebrities of the day.  Of course, this has been the case only recently.  Until photography, most Americans had never seen a “true likeness” of their President.
最初の下線部を赤本は「当時の先駆者たちが撮った写真は、今や世界は写真に撮ることができるという以外、世界について目新しいことを我々にあまり教えてはくれなかった」と和訳しています。解説にはitthe worldだから、しっかり「世界」と訳出できたかどうかが大きなポイントだと書いてあります。でも僕は、その直前文にthe natural worldと書いてあるので、下線部のthe worldは「自然界」と訳さないといけないと思うのですが、薮下先生はどうお考えですか?
次に、2つめの下線部の”true likeness” of their Presidentを赤本は、大統領の「生き写しの肖像」と和訳しています。下線部全体では「写真というものが登場するまでは、たいていのアメリカ人は、自分たちの大統領の”生き写しの肖像”を目にしたことはなかったのである」となっています。その解説には、文脈から判断して「生き写しの写真」でもOKで、そのことは文脈から判断ができ、写真が登場するまで、アメリカ人は大統領本人の写真さえ目にしたことがなかったという意味が込められていて、引用符(” “)は強調だ、と書いてあります。さらに、その先の解説には、pictureはあくまでもlikenessに過ぎないのだから、一部の文化圏では「肖像画」や「写真」を認めないわけだ、と書いてあります。でも、僕はどう考えてもこれが「アメリカ人は大統領本人の写真さえ目にしたことがなかった」の意味の強調表現だとは思えないのですが、薮下先生はどの様にお考えでしょうか。以上の2点について、明晰判明なご説明をお願いします。
<回答>
AKB47君!君はデカルトのファンか何かですか?!今時、「明晰判明」なんて言葉を使う子がいるなんて、ちょっと驚きですね。ま、それは置いておいて、最初の君の質問ですが、君の言っていることは、デカルトの「我思う故に我あり」は誤訳で、「目の前にあるモノが実際に存在するかどうかは分からないけど、その存在を疑っている僕がちゃんと存在していることは明晰判明な事実だ」と訳出すべきだと言っているのと同じです。確かに、君の言ってる通りで、薮下もthe worldは「自然界」を指していると思います。だって、人間にとって、人間が作った「世界」の中には新しい発見なんて絶対にないからです。だから、赤本がthe worldを「世界」と和訳しているのにはちょっと違和感があります。でも、the worldを「世界」と訳しても、ちゃんと京大には入れてもらえますよ。もしこれが「翻訳」だったら、赤本の訳ではお金はもらえませんがね。どうしてかというと、君の違和感の本当の原因は、モノ主語の英文をモノ主語のまま日本語にしているからです。言い換えると、「写真は我々にあまりモノを教えてくれなかった」なんて日本語では絶対に言わないからです。そうではなくて、「当時の先駆者たちが撮った写真を見ても、身の回りの世界を写真に撮ることができるということ以外、僕ら人間はそれ以上の目新しいことをその写真から何も学ばなかったのだ」としてやれば意味がハッキリします。前にも言いましたが、大学入試の「英文和訳」は「翻訳」とは違います。高校生に翻訳家になることを大学は要求してはいないのですよ!
さて、2つ目の質問ですが、この赤本の解説は全く要領を得ませんね。”true likeness”を「生き写しの肖像」と和訳しているのには文句はありません。でも、「生き写しの写真」でもOKなわけないじゃないですか!ましてや、引用符が「アメリカの大統領本人の写真さえ目にしたことがなかった」の意味の強調なわけありません!この解説者は何を知ったかぶりをしているのでしょうかね?!引用符の役割の1つに、「いつも使う表現とはちょっと違うこと言うときに引用符を付ける」というのがあります。つまり、普通likenessは絵に対して使う言葉で、「a good likeness(そっくりの絵)」とか「a bad [or poor] likeness(全然似てない絵)」なんて言います。でも、ここではgoodやbadの代わりに、普通はlikenessと一緒に使わないtrue(本物と寸分たがわない)と組み合わせているので引用符で挟んでいるわけです。今はどうか知りませんが、写真が普及する前は、どの家庭でも大統領の絵を壁に掛けていたのでしょうかね。だから、「写真が普及するまでは、たいていのアメリカ人は”写真のように本物と寸分たがわない絵”なんて見たことなどなかった」のは当たり前です。ましてや、肖像画や写真を容認するかどうかの文化的背景なんて全く関係ありません。

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