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哲学は難しい!?

長年カントを研究してきた先生がこう書いてらっしゃる。
「哲学は難しい。哲学的問を解く以前に問を問として把握することさえ、難しい。哲学の才能の持ち主はきわめて少ないのである」『晩年のカント』(中島義道著・講談社)130ページ
果たしてそうだろうか?哲学が難しいのは、読む側の才能の問題なのか?僕が今までカントを読んできて思うのは、哲学を語る日本語に問題があるからじゃないかということだ。
ここで「永遠の平和のために」というカントが書いた文章の和訳を引用してみたい。
実践的政治家は理論的政治家に関しては、これを実用の役に立たぬ学者として軽視して大いにうぬぼれる態度を取り、かかる学者としての理論家が彼の内容的に空虚な理念をもってして、経験の諸原則から出発しなくてはならぬ国家に危険をもたらすはずがないと思っており、従ってこの種の理論家をして一度に十一本の九柱戯を倒させるような遊びをさせても、世事に明るい政治家はこれを気にする必要はないはずであるから、そうである限り実践的政治家は理論的政治家と意見を異にして争う場合でも、この理論家が運を天に任せかつ公に発表した意見の背後に国家に対する危険を嗅ぎつけることはしないという首尾一貫した態度をとらなくてはならないのである。
もしこれが大学入試の英文和訳の答案だったら、減点の嵐に見舞われる。いや、採点をしてもらえる土俵に上がれないかも知れない。では、これならどうだろうか?
実践的政治家は理論的政治家を「抽象的で役に立たないことばかり言ってるクソ学者だ!」とバカにして得意になっている。そして、国家を考えるのは経験的原則が基本なのだから、抽象的学者が内容のない考えをもてあそんで、国家を危険に晒すことなどはないのだ、と実践的政治家は思っている。それなら、理論的政治家がちょっと大げさなことを言ったとしても、勝手に言わせておけば良いのだ。世間をよく知っている賢明な実践的政治家はそんなことをいちいち気にする必要はない。実践的政治家はアホな学者との間に争いが起きても、一貫した態度を取って、アホな学者がただ運を天に任せて公言しただけの意見の裏に、国家を危うくする臭いなど嗅ぎつけるべきではないのだ。
随分さっきより分かりやすくなった。哲学が難しいのでは無く、哲学を語る日本語が難しいだけ。その昔、アテネ庶民は井戸端会議でフィロソフィーを普通に語っていた。日常会話の語彙だけで哲学は語られていた。それを日本では西周という学者が漢語を使って翻訳してしまった。そのお陰で僕ら日本人は哲学するのが困難になった。だから、哲学が難しいわけではないのだ。